熱意とか向上心とか、あたしから取ってしまったら きっと何も残らない。
いろいろあったよ
2015-05-31 Sun 10:21
今まで、この場所で伏せていたこと
諸々のことが、おわったので
書き記そうと思います。

どこから書いたらいいのかな。
とりあえず

読む勇気が或る方はどうぞ。
(長文です)

時系列で書いていきます。

2013年10月 けろ子に縁談の話が挙がる 

2014年11月29日 今のだんなさん(出身は京都、現在は関東に住んでいる)
 と結婚前提のお付き合いになる
 (それまでは、まぁ、会う頻度もまちまちの、知り合い程度の仲でした)

2014年12月上旬 母に腫瘍があると診断される 
 年明けの2015年1月16日から入院し、手術をすることに。

2014年12月29日 母が腸閉塞のため、緊急入院する
2014年12月31日 母退院 一緒に年越しを過ごす

2015年1月16日 母入院
2015年1月19日 母手術
 腫瘍(つまり癌)が転移していなければ、その部分を切除するため
 手術は長引き、もし、腹膜などに転移していれば、切除できないため
 手術は早く切り上げられるだろう、とお医者さんから言われる
 
 癌は母の体中に転移しており、手術は早く切り上げられた

病院が実家から近いこともあり、
姉や父は、毎日お見舞いに行っていた

2015年1月27日 けろ子は会社の上司に母の状態を伝え、
 これから家族看護のため、お休みを時々いただきたい、と伝える

この時期から、休みの日ごとに、東京から兵庫県に移動し、
病院にお見舞いに行くようになる

2月上旬 状況を相方に話し、結婚式のスケジュールを具体的に打ち合わせるようになる

2015年2月13日 母とかれこれ40年間の友人Aさんと病院にお見舞いに行く
 母は、腸閉塞になったことも影響して、ご飯を食べることができない状態であるため
 抗がん剤治療もできなかった
 でも、まだ歩くことはできていて、筋肉の衰えや、運動不足を気にしていた

2015年2月某日 母の40年間の友人Aさんが、今度は一人でお見舞いに来てくれる
2015年2月24日 転院したとすると、どんな治療が受けられるか、父と大阪の赤十字病院に聞きにいく
 転院したとしても、今いる病院の治療と同じ治療をうけることになる
 母の病気の回復は望めない旨をお医者さんから聞く
 
2015年2月末 相方のご両親が挨拶にくる段取りや、結婚式の日程を確定させる
  母は、転移した癌の影響で、胆管や胃、腸がさらに縮小してしまう
 体内の臓器が細くなってしまったため、胆汁・胃液などが正常に臓器内を通らず、詰まってしまい、
 全身に黄疸が出始める。これを解消するために、体内にステント(金属)を入れ、
 少しでも体内の臓器の管を広げ、胆汁や胃液が通るようにした。
 これが、一歩間違えば死に至ってしまうような、非常に難しい処置だった。
 結果的に、処置は成功し、ステントのおかげで、黄疸は解消された。
 しかし体内にステント(金属)を入れたことで、身体が拒絶反応をしたのか
 吐き気、動悸、吐血をくりかえし、母はみるみる衰弱する。
 親族以外のお見舞いを断るようになる。

2015年3月4日 会社を休み、お見舞いにいく
 毎日、姉と父がお見舞いにきており、状況を聞いたり、
 挙式の段取りについて伝えたりする 

2015年3月11日 婚約指輪を買いに行く
2015年3月14日 挙式の着物を試着しに行く。相方の家(京都)にご挨拶に行く
2015年3月15日 相方のご両親が京都から兵庫の病院に挨拶にくる。
 略式の結納を行う。
 母に対して、相方のご両親が、とても暖かい言葉をかけてくださり、私、号泣。
2015年3月28日 結婚式を京都で親族のみで執り行う
 母は参列できなかったので、弟たちが私の白無垢姿をたくさん写真に撮り、
 母にメールしていた(母は、寝たきりだったが、なんとかメール送受信し、
 確認することはできていた)母から「けろちゃんきれいよ」という
 メッセージを受け取り、私、また号泣。

3月末から、母のおなかには、腹水がたまり始めた。

2015年4月5日 旦那さんと一緒に母のお見舞いに行く
 
2015年4月7日 18時半に、姉から「母の容態が急変し、今晩が山場だとお医者さんからいわれた」
 との連絡をうける。仕事中だったため、早急に切り上げ、品川から新幹線で関西に向う。
 病院まで、新幹線を使っても片道約5時間はかかるため、終電もぎりぎりアウト
 いつもお世話になっている大阪の神社(母もよく参拝していました)で夜を過ごすことに。
 神社では、母をよく知る方々が、母が延命できるよう、一斉祈念をしてくださり
 私もそれに参加。けろ子の友人も偶然いて、一緒に徹夜の祈念をすることに。
 母の状況は、姉から連絡が入ってきて、
 深夜1時ごろから、心臓がとまる不整脈が出始めたとの連絡をうける。
 心臓と、呼吸は二人三脚。万が一の場合に備え、母は人工呼吸器をつけていた。
 泣きながら、母の延命の祈念を友人とした。
 心臓が止まったら、AEDを使った。
 1回ではなく、何回も。
 AEDを使うごとに、母の身体は衝撃をうけた。身体が動かないよう、手を縛った。
 
 また、心臓は動き始めた。
 母は、20回近くにもわたるAEDに耐えて、復活した。
 お医者さんも驚いていた。

2015年4月8日 母の意識がもどってくる。
 人工呼吸器をつけているため、会話ができないが、指で文字をかくことで、
 意思疎通ができるようになる。
 神社では、母の友人たちが、引き続き心配をしてくれて、
 病気回復を祈ってくれた。ほんとうに温かい言葉をかけていただいて、私はまた号泣した。 
 私も病院に向かった。母は、昨晩のことは、意識が朦朧として、覚えていなかった。
 「私、心臓とまったの?電気ショックしたの?」と、よく聞いていた。
 親戚がかけつけた。けろ子の旦那さんもかけつけてくれた。
 病院の家族控え室とICUの間を行き来し、一緒にお見舞いした。
 万が一の事態に備えて、夜は病院に泊まった。
2015年4月9日 
 「何かあったら、家族控え室の内線に電話しますね」と看護婦さんは仰った。
 でも、内線に電話がかかってくることなく、朝を迎えた。
 母の容態が急変することはなく、安心した。
 この日も、病院の家族控え室とICUの間を行き来し、一緒にお見舞いした。
 麻酔・痛み止めを点滴しており、母は眠ったり、意識が戻ったりしていた。
 症状もおちついたので、夜、けろ子は東京に帰ることに。

それでも、週末は東京から兵庫に移動し、母のお見舞いに行った。
眠っている時間が長かったが、「お見舞いにきたよ」というと
目を覚ましてくれた。
近況を伝えると、目を見開いて、母が涙を流すこともあった。

母が敗血症にかかり、油断できない状況が続いたが、
これも回復。
ほんとうに命があることがありがたかった。

仕事は繁忙期となり、けろ子は顧客先常駐となるため
千葉のマンスリーマンションに住むようになった。

4月20日前後に人工呼吸器をはずすと、小声ながら母と会話できるようになった。
このとき、母が寂しがっていることや、不安にかられていること、
とても身体がしんどいことを直接聞いた。

2015年4月27日 夜 姉から、母の容態がまた悪化したとの連絡をうける
 転移した癌の威力がすさまじく、体内に入れたステントも、へし折られてしまった
 姉は、母から「(私はこれから意識がなくなるけれど)あとのことは頼んだわね」といわれたそう。

2015年4月28日-29日 千葉から兵庫の病院に行き、母のお見舞いに行く。
 万が一の場合に備えて、母はまた人工呼吸器をつける

それからの母は、麻酔や痛み止めの薬のため、ずっと眠っている状態に。
話しかけても反応はほとんどなく、身体の状態はゆるやかに悪化していった。
「聴覚は、最後までのこるのよ」というのは、看護師をしている友人の言葉。
なので、近況は、お見舞いのたびに伝えていた。
忙しい中、旦那さんも、何度も一緒に関東からお見舞いにきてくれた。

2015年5月25日 昼ごろ 姉から母の容態が悪化したとの連絡をうける
 血圧が低すぎて、命の危険があるとのこと。
 効果があるかは分からないが、とりあえずは強心剤をつかうことに。
2015年5月26日 会社を休んでお見舞いに行く
 朝の血圧は46/27
 13:50頃に、母の心電図に異常発生。
 心拍数が200近くに跳ね上がる。
 その後どんどん下がっていき、しまいには0に。
 AEDを使うも、前回のように、回復の兆しが見られない
 素人ながら、姉と父が心臓マッサージを行うが、復活せず。
 14:52頃、お医者さんが母の死亡を確認。
 
 寝台車にのり、遺体を病院から実家に運ぶ
 道案内のため、けろ子は寝台車の助手席に乗った。

2015年5月27日 お通夜や告別式の段取り、手配準備
 冠婚葬祭の業者と、生前、母がお世話になった、大阪の神社に相談にいく
2015年5月28日 お通夜
2015年5月29日 告別式

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